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(2) 岡村宇太郎 (1899〜1971)
明治32年9月25日、京都府船井郡東本梅村字南大谷(現在の園部と亀岡の境界線辺り)に
初坂喜次郎の三男として生まれる。同村南大谷尋常小学校1年終了後、9歳の時京都で父の
姉婚家で友禅の仕事を営む岡村治郎吉の養子となる。
青空、隆生の号を用いる。
大正7年京都市立美術工芸学校絵画科、10年京都市立絵画専門学校(入江波光・菊池契月・
庄田鶴友・山元春挙・西山翆嶂・竹内栖鳳に学ぶ)を卒業、研究科に進級する。同期に堂本印象
がいる。在学中の8年国画創作協会第2回展に<牡丹>で初入選、樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞し、
以後同展に<漁夫の習作><漁夫><日没頃><暴風雨の後><花鳥><鷲><栗>など
出品する。昭和3年国画創作協会解散、4年同志と新樹社を結成するが、2回展後自然消滅。
師土田麦僊に帝展、速水御舟に院展に出品を勧められるが、以後画壇を離れ制作を続けた。


若栗に猿図

(参考画像)







国画創作協会
大正7年(1918)1月20日に、入江波光・小野竹喬・榊原紫峰・土田麦僊・野長瀬晩花・
村上華岳により設立宣言され、昭和3年(1928)7月28日に解散するまで、ほぼ10年の
間に7回の公募展を開催した日本画を中心とする作家の集団である。
大正13年の第4回展から素描と版画を受け付け、翌年には梅原龍三郎・川島理一郎を
迎え第2部として洋画部が設置され、昭和2年の第6回に金子九平次の彫刻と富本憲吉の
工芸を陳列し、第1部の日本画部が解散後、<国画会>として新発足するところとなる。
明治40年(1907)に発足し日本美術に活気をもたらした文部省美術展覧会(文展)に、
更なる活気と刺激を呼び起こす一つの源泉となり、大正3年(1914)に結成された再興
日本美術院の院展と共に、近代日本美術史上に独自な足跡を残した忘れることのでき
ない美術的存在である。
従来の日本画の伝統を基礎に置きながらも、近代以後に紹介された西欧絵画の吸収の
もとに、絵画表現の新たな可能性に挑戦する。表面的には因襲的な傾向の脱し切れぬ
文展への反発だったが、内面的には個性の拡充と感覚の新鮮化という理念のもとに、
自由な制作活動を目指すものだった。
以後充分な経済的地盤を持たない事と経済不況のより、また創立会員始め余りにも異質
の才能と志向の画家たちであったため、主要会員の渡欧以後、団体としての結束は弱まり、
ついには解散という事態を迎えるのである。

<国画創作協会の全貌>光村推古書院  
<国画創作協会の歩みIII>笠岡市立竹喬美術館 参照


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